東日本大震災の「発生」から2ヶ月を経ての雑感

「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」を契機とする「東日本大震災」の発生から、2ヶ月以上が経過しました。横浜に在んで東京の会社に勤務している私自身への直接的な被害などは、今までのところ、ないに等しい軽微なものですが、それでも「3.11」以来、若干の情緒の不安定を感じます。

この『サンゴ礁年漂流記』は、サンゴ礁保全を中心に、海の環境保全に関する情報の発信と交換を目的に開設しましたので、本来、震災の話題は中心テーマではないのですが、それでも、現在の状況とサンゴ礁保全とは深いところではつながっているとも思いますし、何よりこの未曾有の大災害に一言も触れぬまま、それとは直接の関係がないように見えるサンゴ礁保全などの話題をつなげていくことには、個人的に違和感があります。

そこで現段階で私の感じていること、考えている事を、半ば自分自身への備忘録の意味も込めて、書き残しておくことにします。

震災の発生以来、今までにないくらいたくさんのTVを見て、新聞を読んで、今までにないくらいたくさん、泣きました。私は元々から感激屋ですから、TVや新聞のニュースを見て泣くことは珍しくはなかったのですが、それにしてもこんなに沢山の涙を流した記憶は、大人になってからはありません。ただその中でも3つだけ、忘れてはならないことがあると思いました。

そのまず一つ目は、2ヶ月ちょっと前に発生した今回の震災は、現在に至ってもまだ、過去のある時点に発生した、「過去の出来事」などではなくて、今もまだその震災の被害が拡大しつつある、現在進行形の事象なのだということです。

「3.11」に発生した地震と津波とは、今後も今以上に大きく被害を拡大していくことはないでしょう。しかしその2つの災害によって引き起こされた「FUKUSHIMA」の原発事故は、未だその終息の目途が立たず、そこから引き起こされる被害の時間的&空間的範囲は、依然、拡大を続けています。私たちは今も、我が国始まって以来最悪の原発事故という、現在進行形の大災害の只中に居るのです。メディアなどを見ても、今回の震災の跡地を訪問して、「第二次世界大戦後の焼け野原を見るようだ。」という声が見受けられますが、地震と津波と原発事故が一セットになった今回の「東日本大震災」の“被災者”となっている私たちにとっては、まだ「戦後」は始まっていません。むしろ「戦争」の真っ只中に居るのだと思います。

地震の発生から時間が経って、自宅や仕事を失ったり、あるいは原発事故からの退避を強制させられている人を除くと、日々の暮らしは一見、徐々に旧に復しており、私を含め、首都圏の人間たちなどはつい、この「東日本大震災」を「2ヶ月前に発生した過去の出来事」のように捕らえがちです。しかしそうではなくて、首都圏に住む私自身を含めて、日本中の全ての人々が、未曾有の大災害の真っ只中に居るのだということを、忘れないようにしたいものです。

そして二つ目は、この二月ちょっとの間、TVや新聞、インターネットなどを通じて、沢山の美しい人の姿や素晴らしい人の行いを見ましたし、その逆に、愚かな人の姿や醜い人の行いも見てきましたが、そこにはきっと、ただ美しかったり素晴らしかったり、あるいは逆に愚かしかったり醜かったりするだけの「人」が居たのではないのだろう。ということです。彼らはそれぞれ、その時に置かれた立場が違っていただけのことであって、タイミングが違えば、状況が変われば、私自身はもちろん、誰もが、ヒーローにも、悪役にも、なり得たのでしょう。

私たちはつい簡単に、「この人は善人。この人は悪人。」と決め付けて安心してしまいがちですが、世の中には100%の善人も居なければ、100%の悪人もいません。今、世の中からバッシングを受けている東電の重役たちも、実際に会って話をすればとても素晴らしい人格者であるかも知れないし、その逆に、原子炉建屋への放水で一躍、日本のヒーローとなった東京消防庁の皆さんも、会ってみたらとんでもない俗物でがっかり。ということだって、なくはないのです。

マスコミはとかく分かり易い「悪玉」を仕立てて、それに対抗する「ヒーロー」との対決の図式(アングル)を作りたがりますが、それは安易な思考停止に他なりません。それでは決して、本当の意味での問題解決には結びつきませんし、むしろ環境問題に「たった一つの正解」や「間違いのない正義」がないように、震災への対応や原発事故に対しても、誰もが簡単に受け入れられる「正解」や「正義」はなどは存在しないのです。マスコミが作り出す単純な“勧善懲悪”の幻想に踊らされて、自分自身で考える事をやめてはいけません。

またこのような、誰が「正義」で誰が「悪」で、また何が正しくて何が間違っているのか分からない状況の中では、私たちはつい、現実の事態に対応している責任者(それは例えば東電の社長であったり、あるいは総理大臣であったり)の些細な「失敗」を取り上げて、彼らの批判にエネルギーを使ってしまいがちなものです。それは些か、この先行きの見えない不安な状況に対する“憂さ晴らし”になるからです。しかし私たちはそれが却って、本当の問題解決を困難にすることもあるということを、忘れてはならないでしょう。

もちろん、健全な批判は必要なことですが、それは将来を見据えた、前向きなものでありたいものです。現在進行形のこの災害の中にあって、自分自身が現在の事態を招いた当事者である事を自覚した上で、この事態に対する責任者の一人として、何を考え、何を発言し、どんな行動を採るのか、常に意識することが必要なのではないでしょうか。どこかの都知事が、「これは天罰だ。」と、まるで自分自身には何の責任もないかのような発言をして批判を受けましたが、私自身は、これは私自身に対する一つの「天罰」だとも感じています。福島に原発がある事を容認し、東京電力に電気料金を払い、政権選択につながる投票を行なってきたのも他ならぬ私たち自身なのですから、今回の事故に対しても、私たち自身の責任は免れ得ないものだからです。
(もちろん、私自身が原発の拡大に賛成したことは一度もありませんが、かといってその原発の恩恵を受けて来なかったわけではないのですから、私もまた、私の責任からは逃れられないと考えています。)

そして三つ目は、今回の震災で明確になったことです。

私は今回の震災が明らかにしたことは、例えば津波の恐ろしさだったり、原発の危険性だったり、あるいは現在の政権の危機管理能力の低さであったりというような、“個別の事象”や“個々の問題点”ではないと考えています。むしろ改めて、これまでの日本の社会制度や経済システムの脆弱さや、そしてそれゆえの持続不可能性が明らかになったのだ。と考えるべきだということです。

結局、私たちの祖父母の代から、戦後70年近く、営々と築き上げられてきた現在の私たちの社会の繁栄は、実は意外にも、極めて脆弱な基盤の上に立った“砂上の楼閣”に過ぎませんでした。資本主義の原則を徹底し、生産と消費とを分離して流通との分業を確立し、都市に集住する消費者を主役に発達して来た私たちのこの社会は、生産→消費の効率性の追求の果てに、様々なアクシデントや変化の衝撃を吸収する“バッファ”の部分までを「無駄」として切り捨ててしまい、結果としていつのまにか、いつかは必ず起き得る想定外のアクシデントに対して、あまりにも脆弱なものとなっていました。私たちの地球は生きて、常に動いているのに、私たちの現代文明は、そのほんの短い期間、狭い場所での安定が永遠に続くものと勘違いして、その根拠のない“幻想”、あるいは“神話”の上に、あまりにも精緻な、そしてあまりにも巨大な、システムを築き上げてしまっていたのです。それは何か大きな環境の変化に対しては、最早誰もその全体を制御することが出来なくなってしまう、恐ろしい“ドミノ”でした。

あるいは、事故の発生から2ヶ月を過ぎた今も、人間がろくに近づくことも出来ないままでいる巨大な原子炉の姿は、私にはまるで、その生存のためにはあまりにも巨大に進化しすぎたサーベルタイガーの牙であるかのようにも見えます。今回の震災が引き起こしている様々な混乱や危機の根本的な原因は、そこにあると考えるべきだと、私は思うのです。

私たちの経済や社会の仕組みが、今回の事態を引き起こしました。私たちの社会が抱え込んでしまったこの根本的な“弱さ”や“危うさ”は即ち、現代の私たちの社会や経済の持続不可能性そのものでもありますし、それを例えば原発の危険性や、時の政権の指導力などの問題に矮小化してしまってはいけません。

私のこの感覚とおそらく同じことを、東北地方に在住する女性漫画家である「とりのなん子」さんは、震災発生後に執筆された自身の漫画作品の中で、このように書いています。
(講談社「モーニング」2011年19号・2011/04/07発売『とりぱん』第289羽より)


>私には 少しも壊れていない家があり
>家族友人もみんな無事で
>ガスも水も食料も 温かな布団もある

>なのに

>怖い

>快適な 文明生活なんて
>うすっぺらい 金魚鉢のようなものだと
>気づいてしまったことが 怖い


彼女が感じた恐怖は、それが今回の震災の本質を衝いたものであると確信するが故に、多くの人に共有して欲しいと思いますし、もしその恐怖の“正体”への理解が一般により広く浸透するのであれば、それはこれからの「震災後」の時代に、今までとは異なる、新しい、持続可能な社会を作り上げる原動力にもなるものと期待しています。これはあるいは、直接の被災者の方に対しては残酷な発言になるのかも知れませんが、私はこれからの私たちに必要なことは、「復旧」でも「復興」でみなく、むしろ全く新しい社会と経済の「建設」なのだと思うからです。

ただそれは、決してこれまでの我が国や、それぞれの地域の長い歴史の蓄積を否定するものではないでしょう。むしろ逆に、それはこの数十年の間に急速に失われたものを取り戻すことであるかも知れませんし、より具体的には、この数十年の間に積み重ねられた“余分なもの”を捨て去ることで、地域と社会の全体性を回復し、その中で暮らす私たちの「生」を充実させるものになるはずだ。と言うのが、私の期待です。

時計の針を今から巻き戻すことは出来ませんが、何年か何十年か後に、冥土で今回の震災の犠牲者の方に巡り会った時に、「あなたたちの犠牲を無駄にはしませんでした。あなたたちの犠牲を糧に、私たちに出来る限り良い社会・良い地域を作り上げることが出来ました。」と、どれだけ胸を張って言えるか。それがこれからの、私たちに問われていると思います。

今回の震災で犠牲となった方々の冥福を、心よりお祈りいたします。また、被災されている方々の生活が一刻も早く安定し、日々を明るく過ごすことが出来るようになりますよう、心から願っています。


* * * しつこく【 P R 】(^_^;; * * *

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* * * 【 P R 】 * * *


PS.

それにしても。

震災後の政府対応などに関するTVメディアなどの報道姿勢は、相変わらず愚劣きわまるもので呆れます。
先日も、4月に公表された原発事故収束の工程表が改訂されて、「1ヶ月前とは前提条件が変わったのに工程表の期限が変わらないのはおかしい。」などと、一見マトモな事を言っているようにも聞こえますが、その実、工程の内容が変わっても納期が変わらないことなどは、民間企業の仕事では当たり前のことではありませんか。

また新しい工程表に対して、原子力工学の専門家が「この期限より早くなるか、遅くなるかは、現段階では何とも言えません。」と発言したことに対して、ワイドショーのキャスターが、「早くなる可能性もあるんですか?」などと驚いていました。アホか。
そもそも今の状況は、まだ事故の詳細が明らかになっていない状況なのですから、この段階での工程表など、初めから目安(と言うか、ありていに言えば努力目標?)程度のものだと考えるべきです。であれば、遅くなる可能性もあれば早くなる可能性もあることなど、良い歳をした大人が、今さら説明されなければ分からないのでしょうか。怒りを通り越して憐れみすら感じさせるほどです。

「水棺」(と言う表現は嫌われて「冠水」に修正されましたが(^_^;;)、から「循環冷却」に変更したといっても、別にそれは当初から全く想定されていなかった方式ということではないでしょう。いくつかの戦術的オプションを並列に検討していた中で、原子炉の状況に応じて、「オプション1」から「オプション2」へ移行したと捉えるのが、普通の社会人の感覚だと思うのです。であれば、「スケジュール自体に大きな変更の必要はない。」という結論が出たとしても、別に不思議なことではありません。

マスコミは東電や政府を、「情報を出さない。隠蔽している。」と批判しますし、また私も実際、東電や政府の情報開示は不十分だとは感じていますが、これまでのマスコミの報道の論調を見る限り、私にはむしろ東電や政府が情報を出したがらない気持ちの方が共感できるくらいです。「情報を出さないから疑心暗鬼になってバニックが起きる。」というのがマスコミの言い分ですが、彼らの本音は「パニック」を期待していて、どうにかそこに結び付けようとしているようにしか思えません。
(そしてそれは実は、現在、直接的な被害を受けていない多くの一般大衆が、その「パニック」を期待しているからでもあるとも思いますが…。)

何とかして彼らの足を引っ張って、騒ぎを大きくして楽しもうとしているマスコミや大衆の欲望に取り囲まれて、東電や政府や、事故の収集に向けて指揮している人々の苦労は、いかばかりかと思います。

そしてだからこそ、人々にはなお一層冷静に、事態の収集に向けた冷静な努力の継続を期待します。
東電や政府の発表は必ずしも信頼に値しないものであるでしょう。しかしマスコミの報道も、場合によっては東電や政府の情報以上に信頼できません。今回の震災で大きな話題になりましたが、TwitterなどのWEBを通じた情報に関しても、事情は同じです。全ての情報は「玉石混交」なのですから、何もかも鵜呑みにすることは出来ませんし、また、全て否定することも出来ません。沢山の“ウソ”や“間違い”の中から、自分自身の能力と知力で、信頼に値する情報をピックアップしなければならないのだと覚悟すべきです。

目新しい情報の一つ二つに惑わされることなく、自分自身で考え、判断すること。それが出来ないのであれば、どんな情報も所詮、デマと変わらないのだということも、忘れないようにしたいと思いました。

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